2007/04
緒方洪庵と適塾君川 治


緒方洪庵は医者でありながら病弱であったとの説明があるが、7男6女の13人の子宝に恵まれていて結構元気である。65歳で亡くなるまで、医者であると同時に医学者、教育者として活躍したばかりでなく、医療行政にまで多くの足跡を残している。
 大阪の淀屋橋から北浜の方に少し行ったところに蘭学者緒方洪庵(1810-1853)の適塾がある。今は大阪大学が管理する史跡・重要文化財であり、周辺の適塾公園には近くのOLが昼休みの散策に出かけてきている。
 緒方洪庵の父は備中足守藩士で、洪庵は足守で生まれたが、父が大阪蔵屋敷留守居役となったので16歳から大阪に移り住んだ。医学の道を志した緒方洪庵は、京都の小石元俊や大阪の中天游に学んだ後、江戸に出て伊東玄朴、戸塚静海と並んで三大蘭学者と言われた坪井信道の塾で学んだ。一緒に学んだのは川本幸民(日本の近代化学・物理学の祖)、杉田成卿(杉田玄白の孫)などである。その後、長崎遊学を経て大阪に戻り適塾を開いた。
 適塾は緒方洪庵が住んだ部屋、塾生の部屋、教室などが昔のままで残っており、当時使用された教材や洪庵著作の本、当時の生活用品などが展示してある。
 2階に塾生の生活した大広間があるが、一人一畳で成績順に好きな場所を取れたという。この広間の続きに「ズーフの部屋」と言われた蘭和辞典が置いてある部屋があり、辞書は1冊しかないので順番待ちで、競争で使用した。
 門下生は全国各地から集まり、入門者を記録した姓名録には600人を越える記録が残っている。幕末・維新後に活躍した多くの人材を育てており、橋本左内、大鳥圭介(清国大使、工部大学校長)、大村益次郎(兵部大輔)、長與専斎(内務省初代衛生局長)、福沢諭吉、佐野常民(日本赤十字社初代総裁)など多士済々である。
 緒方洪庵は医者としての活動と同時に、医学者としてオランダ医学書の翻訳や研究、更には種痘所を開いて予防接種を行うなど、多方面の活躍をしている。洪庵は幕府奥医師として江戸に招聘され、同時に西洋医学所第二代頭取となる。この医学所は明治になって東京医学校を経て東京大学医学部となる。一方、適塾は大阪医学校を経て大阪大学医学部となる。
「一、医の世に生活するは人のためのみ、をのれがためにあらずといふことを其業の本務と。…
 一、病者に対しては唯病者を視るべし。貴賎貧富を顧みることなかれ。…」
 これは洪庵の翻訳した扶氏医戒之略12章の1部であるが、これを自らの自警の書とした洪庵は将に我が国の西洋医学発展の功労者である。


筆者プロフィール
君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




On Line Journal LIFEVISION | ▲TOP | CLOSE |